供養
2015年9月9日
母がなくなって5年になる。
供養をしようか迷ったけど、やらないことにしようと思ってた。
ところが姉から電話があり、やったら・・・と電話があった。 やればあの世で親が喜ぶそうである。
死んだ人間が喜ぶってどう確認するんだ・・・?
肉食、妻帯と仏教の戒律を破って破壊坊主といわれ非難された、親鸞証人は、『父母の孝養のためとて、一辺にして念仏もうしたること、いまだそうらわず…』と言っている。
世間の常識ではなく真理を追究したほうが、社会のためになるんじゃないかな~
親が喜ぶというより、生きている人間が自己満足でするだけだとオイラは思っている。
本当の供養とは、心の中でするものだ、形でするものではないとオイラは思う。
仏教では、1周忌…7周忌…13…とやるそうだが、だれが決めたんだろう…?
両親が信仰していた天理教は年祭というらしい。
物心つかない頃から天理に連れていかれた。あの、面倒くさいお勤めが嫌でしょうがなかった。親が天理教を信仰していることが恥ずかしくて誰にもいえなかった。
10年ほど前の、親父の葬儀には天理教でやった。当然母もそうだ。
親父の時は祭主、副祭主、鳴り物4名(大教会から来ていただいた)計6名で、いろんなもの含めて18万かかった。親戚地域の人含めて幾人か来ていただいた。葬儀から50日際までの総費用は150万ほどかかった。でも、玉櫛料などで、8万円ほど自腹切っただけで済んだ。
5年前のおふくろの時はもっとかかって200万ほどになった。でも、-10万ほどで収まった。
親父の1年祭まではホテルを利用して行った。
年祭も親戚の人たちが、包んできてくれる金額が多いので申し訳なく思い、5年祭からは会費制、5,000円にしました。
そんな派手にしたところで、死んだ両親は喜んでくれない。
そんなことより、残されたオイラ達が幸せに暮らしていることを、一番願っているのは両親だと思う。
それに応えることが、一番の供養になるんではないかと思っている。
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